オペラの現代風読み替え演出について |
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ここでは現代行われている、読み替え演出について私見を述べます。 オペラの読み替え演出とは、「歌詞や音楽はそのままにして、衣装や舞台を現代や近現代などの、元の台本の設定の時や場所とは異なる設定」にして演出することです。バイロイト祝祭音楽祭でシェローが取り入れてからヨーロッパを中心に世界中で行われるようになってきました。日本でも最近行われるようになってきました。 NHK放送大学の舞台芸術論講座の中で、講師の青山昌文は「自動車や飛行機に乗り、現代の食べ物を食べて現代に生きている現代人の演者による上演は必然的に現代的であることに他ならない」と述べています。 また、吉田真 「ワーグナー」音楽の友社 146ページ から下記の部分 1877年ロンドンにやってきたワーグナーの感想は「ここではアルベリヒが野望を実現している」というものだった。「ニーベルングの指輪」の物語の根底に、現代の資本主義批判にあることを作者自身が漏らした唯一の例だが、イギリスでは批評家のジョージ・バーナード・ショーがいち早くこれを見抜き、「完全なるワーグナー主義者」という本で、その本質を説いた。 を引用し、バーナード・ショーの発想が バイロイト祝祭百年目を迎えた1976年のパトリス・シェロー演出の「指輪」の基礎となり、「ヴァーグナーのメッセージに耳を傾けて、ヴァーグナーの作品の内に込められているメッセージを読み解き、ヴァーグナーが現代に演出するならば、このように演出したであろうと思われる演出のひとつの可能性を提示している」と述べています。 すこし話が横滑りしますが、ワーグナーの「アルベリヒうんぬん」のメッセージは、ワーグナーが浪費癖から借金に追われ、また自作の上演にあせっていた時期に、金とコネの支配する劇場に翻弄され、後のユダヤ人への差別視となっていくことを考えると、そのメッセージはなかなか興味深くもあります。 魔弾の射手やマイスタージンガーで、娘を「勝負事の賞品」として提示しますが、どちらのオペラが書かれた時代でさえ、「そういうことはおかしい」をされていたわけで、(だから結末は「愛が勝つ」ようになるわけで)台本の文をその当時の作曲者や作家の常識的な考えとしてはいけないのです。 また同放送大学講座の演劇の回で、講師森山直人はヤン・コットの「シェイクスピアはわれらの同時代人」(白水社)を取り上げ、
この部分を紹介して、「監視」社会であった旧東欧圏でヤン・コットがシェイクスピアを同時代人として考えた理由としてあげています。この内容は監視カメラがますます発達し、情報がすぐに拡散する現代においてはより考えさせられる内容かと思います。 オペラに話を戻します。さて、とはいえ元来が幻想的な作品ではまだしも、奇抜な衣装や奇抜な設定は予備知識の少ないものには理解そのものが難しくなってしまいます。 また、オペラの本質は「音楽と歌詞」であって、衣装、演出、舞台 はやはり付随的なものでそういう意味において演出は結局どうであっても本質は不変ということになります。もちろん刺激的なあたらしい演出で、あたらしい側面や視点がみえてくる部分も否定しません。 しかし、かならず現代演出が必要とまでにはならないのではないか。 オペラの現代性とは原創作者の意図や本質を深くとらえて、現代に照らしあわせてみることを聴衆にも要求しているのではないかと思います。 劇の本質を人間や社会の本質ととらえていくこと、例えば 今後の課題としてとらえていきたい。人間の生と死、愛と憎しみ、貧困、運命、権力、など時代が変わっても不変なメッセージをしっかり舞台芸術から読み取ること、が舞台を楽しむ本質ではないかと思います。 伝統芸能の舞台では、伝統を守ることによって民族や時代を考え、その歴史的経過の中で不変なものを振りかえってみることで現代性が生まれているともいえます。文楽や能、歌舞伎などの楽しみはそこにあるのではないか。私はスペインで闘牛をみたときに歌舞伎に通じる様式美を感じました。 現代的な演出はこれからますます増えていくでしょう。その流れは止められない。しかし現代的な演出が一般的な観客からどんどん離れていき、当初意図した原創作者の意図や本質を現代に照らしあわせてみるとこから遊離していったのでは、意味がなくなってしまいます。 私は舞台を大切に考えている一人のファンとして、現代的な演出が一人よがりになっていかないようにきちんと目を開いてみていきたいと思います。 |
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